1st EP
「ゆうらん船 1」
2023.04.26(Wed)Release
ライブ会場と一部店舗のみで販売していた 1st EP「ゆうらん船」
のCDが待望の全国発売が決定!
1st EP「ゆうらん船」2nd EP「ゆうらん船2」を収録したカップリングLPも4/22(土)RECORD STORE DAYにて発売!
1st EP「ゆうらん船」CD -収録曲-
01. 夢見てる 02. Summer 03. サブマリン 04. 卒業 05. 来週のテーマ
OOC-004 / ¥1,760 (in tax)
アナログLP「ゆうらん船1&2」 -収録曲-
Side A 01. 夢見てる 02. Summer 03. サブマリン 04. 卒業 05. 来週のテーマ
Side B 01. Hello,goodbye 02. 夜道 03. ★ 04. 青い鳥 05. ラブソング
HRLP298 / ¥4,180 (in tax)
Special Interview
『ゆうらん船1&2』アナログ盤リリース記念インタビュー
パート1:葡萄園からゆうらん船へ
――内村さんとのつき合いが一番長いのは永井さんですよね。何歳ぐらいの頃に知り合ったんですか?
永井:家がすごい近所っていうのもあって、小学1年生ぐらいからお互いに知ってる状態だったと思います。友達の家に遊びに行くとたまに一緒になってた感じでした。実は同じクラスになったことはそんなになくて。
――最初から音楽つながりというわけではないですよね。
永井:最初はそうですね。僕が音楽をやりたいと思い始めたのは小学6年生の終わり、中学に入る本当に手前ぐらいなんですけど。僕がピアノを弾き始めたりしたタイミングで、内村から「音楽やってるの?」と言われて。そこから一緒にくるりの曲を演奏したりっていうのが始まった感じです。本格的に演奏を始めたのは中学に入ってからだと思うんですけど、その頃は内村の趣味全開という感じでやってた記憶がありますね。
――そんなふたりに伊藤さんが合流してくるのは、中学の吹奏楽部からですよね。
伊藤:はい、部活で一緒になって、しょっちゅうつるんで遊んでました。
――吹奏楽部では、それぞれどの楽器を担当していたんですか?
伊藤:僕がオーボエを吹いていて、永井と内村がパーカッションをやってました。
――それは意外ですね。しかも永井さんが部長だったそうで。
永井:はい、事の流れで、音楽に熱中していたらいつの間にか部長にさせられていて。絶対向いてないなと思いながらも、高校受験で内申書が良くなると聞いたので(笑)。
――吹奏楽部以外でも3人で演奏するようになったのは、同じ時期ですか?
伊藤:永井家、内村家で3人で曲を演奏して遊ぶ、みたいなことは中1からずっとやっていて。吹奏楽部でも幕間に本編と別で演奏する時間があって、そこでも3人で曲を作って発表したりとか…バンドの原形みたいなのはそういうところかなと思います。
永井:3ピースバンドという形で、最初はバンド名とかあるわけではなく。吹奏楽部の定期演奏会をやるときに少しだけ時間を作ってもらって、アンサンブル枠みたいな形で、3人で曲を演奏したことがありました。そのときは僕がドラムで、内村がギター、伊藤がキーボードでした。
――その3人組にやがて名前がついて、葡萄園になったわけですね。
永井:バンド名をつけたのがいつだったか…多分高校に入ってからだと思うんですけど。
――その頃の3人の音楽の好みは近かったんでしょうか?
伊藤:僕は中学に入るまでクラシックしか聴いてなくて。いわゆるロックとか日本のバンドとかも全然知らなかったんですけど、内村のところに遊びに行くとそういう曲を聴かせてくれたりして。僕は結構内村経由でポップミュージックを聴くようになった感じでした。
永井:僕も似たようなかたちで、伊藤ほど昔からクラシックをやっていたわけでもないんですけど、どっぷり音楽にはまるようになったきっかけはクラシックで。いわゆるロック、フォークを聴くようになったのは内村の影響で。彼が持ってくる音楽を聴いて知っていった感じでした。今もゆうらん船にいることで、自分があんまり触れたことのないジャンルの音楽を聴く機会が増えたし、中学の頃からそういう状態がずっと継続している感じではあります。
――で、葡萄園というバンドはオリジナル曲もやりながら、はっぴいえんどなどのカバーもしていたんですよね。
伊藤:そんな感じです。内村家で年に一回ぐらい知り合いが集まって文化的なイベントを催していて。パブリックな場所を借りて、一週間ほど展示をしたりする課外活動をやってたんです。そこで音楽以外も含む発表の場があって、3人で作った曲を演奏したり、くるりやはっぴいえんどのカバーをやったりっていうのが、いわゆるバンドとしての始まりでした。
――葡萄園が残したデモテープと思われる音源がYouTubeに上がってるんですけど、あれはいつ頃録音したものですか?
伊藤:あれは高校一年生。
永井:僕だけ音楽の高校に行ったので、ふたりとはなかなか予定が合わなくなって。たまに土日で時間を作ってスタジオに入ろうとは言ってたんですけど、デモを作ったりするときに参加するのが難しくて。気がついたら僕が未参加のままデモが出来上がっていて(笑)。多分ドラムとかは手打ちで作ったんだと思うんですけど。なので、あの音源には僕はほとんど参加してないです。
(※ここで内村イタルが到着)
――今ちょうど小~中学校時代の流れを訊いてました。葡萄園の歴史は結構短くて、高校に入ってから解散してしまうんですね。それは高1の頃にコンテスト「ヨコハマフッド!! 2010」に出場して「夜明けのミラーボール」を演奏した後ぐらいでしょうか?
内村:いつ解散したという感じでもなくて、自然消滅みたいな流れだったと思うんですよ。いつぐらいまでやってたんだっけ?
伊藤:多分、僕と永井が受験で忙しくなってきて、なんとなく活動がソロになっていったので。高2いっぱいぐらいまでは、何やかんや集まってやってた気はします。
内村:デモは録ってたかもしれないね、ライブはやってなくても。
――そして高3の頃、内村さんはソロで「閃光ライオット2012」に出場して「黒い煙」を演奏、審査員特別賞を受賞。高3でもうあんな独創的な曲を書いていたのは驚きですが、この時点でデビューの誘いとかは来なかったんですか?
内村:気にかけてくれる方はいたんですけど、じゃあ契約しようとか事務所に入ろうとかはなくて。基本的にはひとりで宅録したりしてました。
――結構長い間ひとりで曲を作り続けてたと思うんですけど、それがやがて内村イタル&musasavibandのミニアルバム(2014年)に入るわけですか。
内村:前から作ってた曲もあったけど、musasavibandでレコーディングしようということで作った曲が8割ぐらい、という感じでした。
――その後、ふたたびソロに戻ってからは主に弾き語り中心の活動ですか。
内村:そうですね。2015~16年ぐらいは弾き語りがメインになって、CDで言うとカネコアヤノさんとのスプリット盤を出したのが2016年でした。
――ただ、弾き語りを続けながらも、バンドをやりたいという気持ちはあったわけですね。
内村:はい、葡萄園のいっちゃん(伊藤)、永井とバンドをやりたいというのはあったので、どこかでタイミングが合えばまた一緒にやりたいと、ずっと思ってました。
――そこからゆうらん船が結成されるまでのいきさつを教えて欲しいんですが。まず本村さん、砂井さんとはどういう風に出会ったんですか?
内村:本村くんが以前やってたバンドのメンバーと面識があり、ライブを見に行って知り合いました。
本村:うん、ライブハウスで出会ったことは覚えています。
――内村さんと砂井さんはどうやってつながったんですか?
内村:砂井くんは、彼がもうひとつやっているWanna-Gonnaと、最初は対バンとかですよね。
砂井:そうですね。(渋谷)7th FLOORとかだったと思うんですけど。
内村:何回か対バンして、それで仲良くなって。
――で、バンドを組もうぜってなったのはどんなきっかけだったんですか?
内村:バンドをやりたいっていう気持ちがmusasaviband以降もあって。ちょうどゆうらん船を組むタイミングで、いっちゃんが大学に入ったんだっけ。
伊藤:うん、大学1年の冬ぐらいに結成にこぎ着けた記憶があります。
内村:そうですね。いっちゃんができそうだってなって、ちょうど本村くんと砂井くんとも知り合っていたので、ひとりずつお願いして、っていう感じです。
――どういう風にメンバーを口説いていったんですか?
内村:なんか、飲みに行きましたよね(笑)。
砂井:行きました。
本村:行きましたね、サシで。
内村:ぜひお願いしますって話をして、ふたりともいいよって言ってくれて。
――バンド名はどうやって決まったんですか?
内村:みんなで、新宿の磯丸水産で決めましたよね。
――ああ、じゃあ船は海のイメージに引っ張られて…
内村:そういうことだったのかな(笑)。どうやって決めたんだろう。誰か覚えてますか?
砂井:全然覚えてない(笑)。
本村:起源を主張するようで言いづらいけど、自分が考えました。
内村:そうか、本村くんだ。
――他にも候補は出なかったですか?
本村:5~6個ぐらいあったのを書き出してみて、しっくりくるやつ、みたいな。何か明確なコンセプトがあったわけではなくて、これなら名乗ってて嫌じゃないな、というのを選んだ気がします。
――その時点では、どういう曲を演奏するのかわかったうえでバンド名を決めたわけですよね。
本村:確かリハの後だったよね。
砂井:もうライブをバンド名もないまま2~3回やっていて、それからバンド名を決めた感じだったと思います。
――そう言えば、名無しの時期のライブの映像もYouTubeにありましたね。さて、1枚目のEPですが、あれは最初の頃のライブのレパートリーを録ったんでしょうか。
内村:そうですね。5曲揃ったから録ろうか、っていう感じでしたよね。
本村:それに加えて「黒い煙」と、「永遠」っていうYouTubeにも上がっている曲、その7曲だけでしばらくライブをやっていた気がします。
――最初のEPを作るときは、取り敢えず自主制作で1枚作ってみよう、という感じで始まったんでしょうか?
内村:これは完全に自主でしたよね。
本村:予算も全部自分らで出して、スタジオも知り合いづてに安くして頂いて。流通にも乗せないで、まずは手売りでもいいから音源を作ろうっていうのが先行してました。
内村:名刺代わりみたいな感じでね。
――このEPはどれくらいの期間で録ったんですか?
内村:2日か3日ぐらい。
砂井:多分2泊3日で録ったと思う。
本村:2月に録った。仮タイトルは『2月のオジー』だったんですよ。
内村:そうそう、めっちゃオジー聴いてたな。
――なんでその時期にオジーだったんですか。
内村:なんか、その頃オジー・オズボーンのファースト・アルバムをすごい聴いてたんですよね。
本村:『ブリザード・オブ・オズ』を(笑)。あのまま『2月のオジー』としてEPが出てたら、今どうなってたんだろう。
内村:関連がよくわかんないですよ(笑)。
パート2:2017年、『ゆうらん船1』誕生
――1st EPの時点で、メンバーの共通認識としてこういうサウンドでやりたいというイメージはあったんでしょうか。あるいはこっちへ行きたいという作品の方向性とか。
砂井:特に方向性というのは考えてなかった気がしますね。内村イタルが弾き語りでやっている曲があるので、それを最大限尊重するという考え方だったのかな、とは思います。でも、最初にメンバーが集まったときは、ザ・バンドとかが共通して好きなんだ、ということで多分出会っていて。僕は本村くんとはゆうらん船で初めて出会ったんだけど、最初もザ・バンドとかが好きな者同士で集まった感じがあったので。何となく“その辺”が好きなんだろうな、とは思ってました。
――ここからは、1st EPに収められた5曲がどんな風に形になっていったのかを教えてください。まず「夢見てる」。
内村:この曲は先にデモを作った気がするな。このアレンジは、スタジオに入ってみんなで合わせていって、だんだんこういうアレンジになっていった感じなんですけど。
本村:曲の展開とかも、録り終わってから編集でアウトロを作ったりしています。最初の終わり方はもともとは違っていて。エンジニアの方が、「こうしたらかっこいいんじゃない?」ってスパパッと編集したものと、最初のヴァージョンをみんなで聴き比べてみて、「こっちの方がいいね」って選んだので。だから明確なヴィジョンみたいなものは全然なかったし、それはどの曲にも共通して言えることだと思いますね。録りながら考える感じだったのは覚えています。
――このEPは、そういう風に手探りしながらのレコーディングだったわけですね。
本村:うん、明確性がなかった、ということですね。
――次は2曲目の「Summer」。
内村:これはもともと作っていたデモがありました。弾き語り中心にやっていた時期にもバンドの感じでデモを作っていて。「Summer」はそのときにできた曲かな。
伊藤:比較的デモに忠実な音源で。間奏とかは多少バンドで展開を加えたりしたと思うんですけど、内村が作ったデモがイメージのほぼ中心になっている曲だと思います。
――「サブマリン」はどんな感じでまとめていったんですか?
内村:この曲も僕がひとりで作ったデモがあって。でも、もう一回バンドをやろうってなったときに、スタジオでちょっと組み直してみた感じですね。
本村:リズムアレンジの発想をザ・バンドから引っ張ってきたのは覚えていて…イタルのデモが実際どんな感じだったのかは、ちょっと覚えてないんですけど。Aメロのリズムがハーフタイムというか…何かのドキュメンタリーで、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムが「ザ・ウェイト」のリズムは、最初は倍の速いテンポだったけど、演奏のテンポを落としつつビートを倍で取ることで、あの乗りと雰囲気を作っていったと言っているのを見て、なるほど!と思って。その日にたまたま「サブマリン」のリハーサルがスタジオであったので、覚えたてのアイディアをその場で挿し込んでみた…というのを覚えてますね。
――やっぱりザ・バンドというところが、オルガンを効果的に用いたアレンジにつながっているんですかね。
内村;そうですね、恐らく。
伊藤:ザ・バンドのイメージは僕自身も共有してたんですけど。オルガンについて言うと…これは僕自身の個人的な話なんですけど、フレージングとかは僕が吹奏楽部でオーボエをやっていたことが影響してると思ってて。
――なるほど。単にバッキングをするのではなくて、そういう意識がフレーズに入っているんですね。
伊藤:はい。木管楽器を吹いているような気持ちでキーボードを演奏しているのは、昔からそうなんで。ここにはザ・バンドのイメージと、そういう個人的なコンテキスト、両方あるのかなと今は思います。
――独特な歌心をキーボードのフレーズから感じていたので、今の説明で腑に落ちた気がします。続いて、「卒業」はどんな風に生まれたんでしょう?
内村:ゆうらん船を組んだぐらいのときにできて、最初は弾き語りでライブとかやってたような気がするんですけど、バンドでやることをイメージして書いた曲だと思います。このアレンジは…ギターはテレヴィジョンだっけ。そういう話をしましたっけ?
本村:うーん、参考にしたバンドが具体的にあったかどうか…テレヴィジョンの「マーキー・ムーン」ぽさはあるけど、実際にリファレンスとしてどうこうみたいな話はしたっけ?
内村:してないかもしれない(笑)。
本村:そういうのはむしろ録り終わってから、ぐらいな感じで。すごい自然発生的なアレンジだったような気がしますね。ドラムのハイハットが、8ビートなんだけど8分で刻むんじゃなくて、ハウスみたいな裏打ちでずっと入ってるんですけど。それとか、今聴き直しても「なんでこうなったんだっけ?」という感じだったので、恐らく各々のセンスでこうなったんだと思いますが。砂井さん、何か覚えてますか?
砂井:いや、まったく覚えてないっす。
内村:ドラムがなんであの感じになったとかも覚えてないっすか。
砂井:うーん、全然ねえ…「サブマリン」とかも、今言われてそうだったかあっていう感じだったんですけど。でも、どの曲も変なことはしてないですよね。そういう意味では、もともとの自分の持っているものから、この曲ならこの感じかなというのを出しながらやってみた…というのが1st EPだった気がします。
――お互いに様子を見ながらやっているところはありますよね。
砂井:完全にそういう感じですね。
――最後の「来週のテーマ」というのも面白い曲で。このままの調子で普通に終わるのかなと思ったら、終盤で混沌としますけど。
砂井:ああいうのは本村くんがやる、っていう(笑)。
本村:ノイジーなパートとか。なんか、ベースをオートワウに突っ込んで、“ファシャ―ッ”みたいなノイズを作ったのは覚えてますね(笑)。
――そんな風に、割とその場で思いついたらどんどんやってみるんですね。
本村:そうですね。あのときは奇跡待ちというか…とりあえず何かやってみて奇跡が起こったらいいな、みたいな感じで、思いついたのを何でもやってみるっていう感じではありましたね。最後にアウトロでマンドリンとアコーディオン、グロッケンとかが入ってくるのも、その場で決めた気がします。
――その辺の楽器は用意していったんですか?
本村:アコーディオンとかはスタジオにあったんじゃないかな、恐らく。そこにいろいろ楽器があったので、やってみようと思ったところはありました。場所で作られた音楽というか。
伊藤:アウトロだけダビングで。4人で1個ずつ楽器を持って、みんなでマイクを囲んで一斉に演奏して。結構その場の空気感が入っていると思います。
内村:なんか…ヘロンみたいにしようっていう話をした気がする。
――ヘロン!? ブリティッシュ・フォークの、ですか。なかなか渋い。
本村:当時好きでしたね、ヘロン。砂井くんはライブに行ってたよね。
砂井:見に行ったね。ちょうどそれぐらいのときか。
――そうですね。初めてヘロンが日本に来たのは2016年でした。ザ・バンドもヘロンもそうですけど、いかにもスタジオで録りましたというタッチではない…ヘロンにいたっては屋外でレコーディングしたりしていたわけで。
内村:うんうん、そうですよね。
――いずれも集団で演奏しながら有機的にサウンドを練り上げていくスタイルですよね。そういう雰囲気は、ゆうらん船と通じるところかもしれない。
本村:うん、事前に仕込むというよりは…録っている場所、録っている人に影響されて作るタイプの音楽に、当時の僕はめちゃめちゃ憧れがあったんで。そういう空気は、僕個人としては目指してましたね。
――他にこのときのレコーディングで印象に残っている出来事はありますか?
本村:僕らが合宿した伊豆のスタジオは、ごはんも基本的にそこの方が作ってくださるんですけど。2日目ぐらいの朝ごはんで…多分僕らが静かすぎて、「なんで君たちそんなにしゃべんないの?」って言われて(笑)。すごい困らせた記憶があるんですけど。
――でも、それは皆さんにとっては自然なことで、そもそもおしゃべりなメンバーがいるバンドではないわけですよ。
内村:そうですね。
本村;エンジニアの方を含めて5人で、ずっと無言でごはんを食べ続けている様子が、向こうの方からしたら不気味だったんだろうなと思って(笑)。
――そういう現地の空気まで、全部含まれているEPなんだろうなと思います。これを初めて聴いたときは完成度の高さに驚かされたんですが、作った当人たちとしても相当手応えはあったんじゃないですか?
内村:うんうん。思ったよりちゃんと形になったという気はしたと思うんですけど。
本村:思ったより良くなったというのは同意するところで、逆に言うとそれぐらい何の準備も、何の想像もしないで行ったので。できて良かった、という感じです。
――僕はこのEPを聴いて、これはとんでもないバンドが出てきた!と衝撃を受けて。初めてライブを観に行ってみたら、それがちょうど伊藤さんが一旦抜けて留学する前のお別れライブで(2017年8月11日、下北沢GARAGE)。これからというときなのにもうメンバーが抜けちゃうの?と驚いたのを覚えてるんですけど。
内村:そっか、そのタイミングですね。
本村:その日キーボード倒れたよね。
内村:そうだ。落ちた落ちた。
本村:バンドが崩壊して、楽器も落ちて。大変なことになりました(笑)。
――まあ、この時点で伊藤さんがスウェーデンに留学することは、あらかじめ決まってたんですよね。
伊藤:そうですね。あのライブも出発する本当に一週間前ぐらいでした。
――で、普通はここでどうしようかと一瞬路頭に迷うと思うんですが。ここでいよいよ、永井さんが登場することになるわけですね。
永井:はい。僕は1st EPにはノータッチだったので、今初めて聞く話がたくさんあって(笑)。そうだったんだ~、と思いながらずっと聞いてました。
パート3:2019年、5人が揃った『ゆうらん船2』
――ゆうらん船に加入する前から、永井さんもこのバンドの作品やライブに触れる機会はありましたか?
永井:自分はそんなにライブに顔を出すタイプではなかったんですが、一回だけ吉祥寺のシルバーエレファントで観て。もうゆうらん船という名前だったか、記憶が定かじゃないんですが。ああ、今こんなことやってるんだ、とか…そのときに葡萄園でやっていた「ヘッドホン」って曲もやってたんで、すごい懐かしいなと思いながら聴いていて。
――その後、伊藤さんが海外留学のため一旦バンドを離れ、永井さんが加わる流れになるんですよね。
永井:はい。自分も大学を卒業したタイミングで、またバンドに戻ってこないかと内村に誘われて。最初はメンバーというよりはサポートに近い感じで入ったんですけど、そのうち正式加入という形でメンバーに迎い入れてもらって。で、しばらくは伊藤の代わりに僕が4人目として演奏していた感じです。
――そして伊藤さんもバンドに戻ってきて、ダブルキーボード編成になる。ここで内村さんがずっと思っていた、また葡萄園をやりたいという野望も達成されたわけですね。
内村:はい、無事に達成され(笑)。
――そんなに伊藤さん、永井さんと一緒にやりたかったわけですか。
内村:うん、葡萄園が楽しかったので。誘えばやってくれそうな感じもしたし。ここでようやく野望を達成しました。
――現在の5人が揃ってから作られた2枚目のEPについて伺いたいんですが。ここに収められた5曲はすべて書き下ろしですか?
本村:「青い鳥」はソロでやってたよね。
内村:うん、「青い鳥」は結構古いかな。でもこのEPを作ろうということになって書いた曲もありましたね。
本村:それこそ「★」とか。
内村:そうそう、「★」はそういう感じで作って。「夜道」はちょっと前にあったのかな…ソロのときに作ってたかもしれない。「ラブソング」とかはバンドでアレンジを考えてやった気がする。
伊藤:僕が留学から戻る前にバンドのアレンジが結構できていて。4人である程度形になっているところに、上物がもう一個増えるみたいな感じでした。「★」とか「ラブソング」、「夜道」とかは、4+1でアレンジしていった記憶があります。
――このEPはどれくらいの製作期間で仕上げたんですか?
内村:レコーディングは1枚目のEPと同じで、2泊3日ぐらいでやったと思います。で、ストリングスのダビングでもう1日。
――1枚目のEPを作った後で、次はこういう作品を作ろうという話は何か出てました?
内村:永井はオーケストラのアレンジとかもできるので、次はストリングスも入れたいねという話があって。で、「Hello,goodbye」を録ったと思います。
――「Hello,goodbye」はかなり強力な曲だと思うんですが。これはストリングスを入れるイメージで書かれた曲なんでしょうか?
永井:いや、多分最初は普通にバンドでやるつもりでアレンジされていて。どの曲をアレンジしようかって話しているときに「Hello,goodbye」の話になって、じゃあこの曲にストリングスを入れるならどういう風に足し引きしようかっていう感じでアレンジを考えた記憶があります。ピアノも最初はガイドみたいな形で、いつもバンドでやっているときと同じように弾いて。後でストリングスを入れてみて、もしもピアノがストリングスとかぶって邪魔になるようだったら外してもいいですよと言ってたんですけど、結果的に両立できることになってこういう形になりました。多分ストリングスを入れるに当たって、ライブとかでバンドがやる形からほぼ変えなかったと思います。
――今となってはストリングス抜きの「Hello,goodbye」がなかなか想像しにくいんですが、そのようにバンド・サウンドでベーシックが出来上がっていたわけですね。
永井:そうですね。割とライブ音源に準拠、みたいな感じだったと思います。
――なるほど。これは普通に考えたらシングル候補になりそうな、かなりキャッチーな曲だと思うんですが。「やった!」という手応えがあったんじゃないですか?
内村:うーん。ありましたか?
本村:うーん。
――あれ?(笑)。そうでもないんだ。
内村:いいなあ、とは思った。
本村:いい曲ができたな、とは思ったけど、シングルとしてとか、突出して他と区別された手応えは僕はそんなになかったかな。いいなあ、どれもいいなあ、みたいな(笑)。
――こういうアレンジになったことが影響しているのか、「Hello,goodbye」ってライブでは意外とやらないですよね。
本村:確かに。たまにワンマンでやるくらいの感じです。
――ストリングス入りでライブをやる5月3日の渋谷クラブクアトロでは、見せ場になりそうな曲ですが。
内村:うん、やはり(笑)。
本村:やはり。乞うご期待ということで。
――「夜道」はどういう風に仕上げていきましたか?
内村:これはバンドとスタジオに入ってから結構変わったなと僕は思いました。最初デモがあったと思うんですけど、みんなとやってそれとは全然違う感じになったかな。なんか、何っぽくしようとかありましたっけ?
本村:僕は何にもないですね。砂井さん、何かありましたか?
砂井:いやあ、全然覚えてないんですよね。でも「夜道」に関しては、1st、2nd EPの曲の中では、アレンジでいろいろ変わった曲だなと思います。改めて聴いてみると、ドラムもいろいろやってんな、という感じがあったりとか(笑)。どういう意図だったのかは忘れちゃったんですけど、何となくではない、意志のあるアレンジにこの辺からなってる気がしますよ。
――そうですね。今のゆうらん船につながる感じ、と言うか。サウンドの輪郭はよりはっきりしてきたかな、という気はします。次の「★」はどんなイメージでまとめていったんでしょう?
砂井:これこそテレヴィジョン。
――ああ、1st EPの「卒業」以上にね。
内村:そっかそっか。
砂井:「マーキー・ムーン」のあの感じから、聴いていると若干拍がズレてるみたいになっていく…っていう技巧をやってみようぜ、という話になって。その結果、やってみたらちょっと難しくなりすぎて、ライブであんまりやらないという(笑)。
――確かにあんまりやった記憶がないですね。
本村:これのアレンジ、半年以上かかりましたよね。
内村:そんなかかったか。
本村:途中で本当にみんなこれに興味なくしてるなと思う瞬間があったのは覚えてる(笑)。
――そうなっちゃうタイプの曲ってありますよね。袋小路に入るというか。
本村:そう、なかなか完成しない。
――でも結果的に、膨らみのあるいいアレンジに仕上がったと思いますよ。
本村:いわゆるCメロというか、ドラムが抜けてからの展開は、レコーディングスタジオでのポストプロダクションというか…後から音をどんどん当てがって、ようやく完成したという気がしていて。そういう意味だと、この後の1stアルバム、2ndアルバムの下地になったのはこの曲なのかな、と思いました。この間聴き返していて。
内村:うん、そうですね。
――どうも話を訊いていると、最初の2枚のEPはエンジニアの濱野泰政さんの貢献もかなり大きそうですね。ポストプロダクションの部分で。
本村:はい、実質エンジニア/プロデューサーのような存在だったと思います。
――次の「青い鳥」は、さっきも話が出た通りソロっぽい曲で。
内村:そうですね。ソロでもやっていたけど、このコードの感じは永井と一緒にちょっと考えて、もうちょっと複雑になったよね。
永井:最初は完全にジャズのつもりで弾いていて、ちょっと面白い音を付け加えてみようか、みたいな話はした気がします。最終的には、ジャズとはちょっと違う方向性に落ち着いたかなと思ってるんですけど。
――そうなんですよね。ジャズまで行かないけれど、ホンキートンクっぽいピアノをバックに歌っているシンガー・ソングライターの曲、みたいな。クラシックだけでなく、こういうジャズ方面の引き出しも永井さんにはあるんですね。
永井:そうですね、割と好きなジャンルが当てはまっていたというか。クラシックを学んできたんですけど、割とモダン・ジャズやフュージョンも聴いていたので。そういうのを当時はやりたがっていた傾向がありました。とにかくピアノを弾いていたい、みたいな時期で。
――最後の「ラブソング」ですが、これはどうやって形にしていったんでしょう。
内村:これも結構みんなでやった感じだったと思う。
本村:記憶が定かじゃないんですが、永井くんが参加してくれることになって割とすぐくらいの時期にやった印象があります。僕はそれまでピアニストとバンドをやった経験がなかったし、永井くんはいっちゃん(伊藤)ともプレイスタイルが異なるので、こんなこともできるんですか?というところを無茶振りしまくった記憶があって。ここからここまで半音でオクターヴにまたがって駆け上がってくれとか、2番のAメロを全部同じ音で弾いてくれとか、ここは人力アルペジエイターみたいにして音階をひたすら上下してくれとか(※アルペジエイター=和音からフレーズを生成、アルペジオで自動演奏させる機能。シンセサイザーに内蔵されていたが、現在はプラグインで容易に使える)。DTMでひたすらやるようなことを人に弾かせる、みたいな(笑)。
――それができちゃう人、ということですよね。恐ろしい。
永井:その頃はとにかくピアノを弾きたい欲求が強い時期で、いろんな人から言われた要望を全部やったるでみたいな気分で、どんなことでもやりますというスタンスでした。
本村:この曲は本当に永井くんありきのアレンジだったなと思います。
永井:ピアノコンチェルトじゃないですけど、それに近いイメージがあります。
――で、この2枚目のEPが出来上がったときは、どんな手応えがありました?
内村:当時…ストリングスを入れたかったから、すごく。なので、ストリングスを入れられて良かったな、満足っていう(笑)。あとさっきも話が出ましたけど、「★」がその後のゆうらん船につながるものになったという感じは、本当に実感としてありました。
パート4:『MY GENERATION』での変化、そして現在まで
──最初のEPはライブ会場でしか買えませんでしたが、2019年10月に発売された『ゆうらん船2』から、いよいよCDが全国流通されるようになりました。この年は『ゆうらん船2』が出る少し前にFUJI ROCK FESTIVALのROOKIE A GO-GOに初出演したり、いわゆるフェス的な場所に呼ばれる機会がこの辺から徐々に増えていったと思うんですが。状況の変化は何か感じていましたか?
本村:うーん、大きく明らかに変わったな、というのは自分はあんまり感じなかった。というのも、そもそもライブの本数がその頃はとても少なかったし、誘われても現実的にスケジュールの問題で出られなかった、ということがまだまだあったので。その時点では多分…ゆうらん船が東京以外でライブをやること自体、ROOKIE A GO-GOが初めてぐらいだったと思うんで。EPが出てからも特にツアーを回れたわけでもなかったし、環境の変化は自分は感じなかったですね。
──これだけ質の高いEPが2枚世に出ていたのに、まだそんな感じだったのは何とも不思議ですけど。
本村:僕らも売る努力をしてなかったと思います(笑)。
内村:うんうん。
本村:広めようっていう気がなかったわけでもないけど、そこは明らかに努力をしてなかった気がします。
──そして2020年6月、初めてのフル・アルバム『MY GENERATION』が世に出たわけですが。それまでのEP2枚で構築してきたものを壊しにかかっているように聞こえて、初めて聴かせてもらったときに仰天したことを覚えています。同時代の音楽からの影響がより顕著になってきたし、自分が考えていたよりも過激なバンドなんだなとその時に初めて実感したんですが。ああいう変化は自然な流れでそうなっていったんですか? それとも、一回ひっくり返したいという欲求がどこかで芽生えたとか?
砂井:2nd EPを録音したのは2018年の冬とかだったと思うんですけど。あれがリリースされた時点の印象って正直全然なくて。これを売ったろうという気持ちも全然なかった。僕自身は1st EPの方が断然好きだったんですね。で、これからどうしよう?っていうのが僕の中でもあって。アルバムを作ろうっていうのは決まっていたと思うんで、それを作るに当たって、ポイントを個人的に増やした記憶があります。みんなが積極的にポイントを増やしたのかどうかはわかんないですけど…全体的には、全員がアレンジとか曲に対するコミットメントを増やしていって、結果的に2枚のEPをぶち壊すようなアルバムになった、という気は何となくします。
──旧来の音楽業界的なセオリーで言うと、多分パッケージとして「売りやすい」のは最初の2枚のEPの路線…フォーク・ロック的な雰囲気を持ったバンドというイメージの中に押し込めてしまった方がわかりやすいと思うんです。たとえばメジャーデビューして、プロデューサーもつけられて、みたいなよくある状況だったら、そういう今まで積み上げた路線を踏襲させられるのが常道だと思うんですけど。やっぱりゆうらん船というバンドはそんな生き方をしている人たちではないんだなと『MY GENERATION』で思い知らされて、それが自分にとっては痛快な裏切りだったんですね。ゆうらん船が「フロントマンとその他」タイプのバンドとは明らかに違う、音楽家集団としての強力な個性を発揮し始めた重要な一歩だったと思います。
本村:そのあたりは、その時期からゆうらん船に関わってくれることになったレーベルに感謝です。
──こういう大胆な冒険をするという選択をレーベルは止めなかったわけですよね。
砂井:何となく「アルバムはnavyから出せるらしい」っていうことで進んではいたんですけど。その間、音を聴いてもらってなかったと思うんですよ。こういうプロセスになってることをまったく想定しなかったと思う。どう考えても、先にEPを2枚聴いてもらって、じゃあ初めてアルバムを出しましょうっていうときに持っていくには異常な内容の作品だったと思うので(笑)。でも作っているときは、そういうことを一切考えてなくて。で、聴いてもらったときに、やっぱり「めっちゃ変わったな」という話になったんですけど、普通にそのまま出してくれたんで。そこでわかってもらえなかったら、あのアルバムは世に出なかったですよね(笑)。
内村:確かにね(笑)。
本村:本当に。
──ここで前進し続ける、変わり続けるバンドとしての姿勢を打ち出せたし。決まったスタイルに縛られないでいろんなアイディアをどんどん試す方向に進んだことで、2枚目のアルバム『MY REVOLUTION』では各メンバーの個性がますます浮き彫りになったと思うんですけど。じゃあ、ここから先のゆうらん船はどう変わっていくんでしょう? まだ次のアルバムのヴィジョンとかはないと思うけど。
内村:どうでしょう。皆さんありますか、展望は。
本村:いやあ…みんな元気で健康に暮らしてれば、それが一番いいと思うんで…って、まったく答えになってないですけど(笑)。
──(笑)何と言うか、本当に純粋に興味の対象が音楽だけ…その時々に自分たちが面白いと思う音楽をやりたいっていう欲求のみ、という風に見えるんですよ。何万枚売りたいとか、成功したいとか、そういう商業的なモチベーションからは随分離れたところにいるように感じて。
本村:思いついたことを有機的に試していける…そういう心を折らずに、続けていければ。
内村:うん、そうやって続けていきたいですね。
本村:そういう意識は、自分は最初からある。気負わずに居られる場所というか。何となく、このバンドに「やめる」とか、そういう概念がそもそもない気がしてるので。だからどういう状況になっても…たとえペースが落ちたとしても続いていくんだろうなと思います。まあ、ペースが落ちないようにできれば、それに越したことはないんですが。
──メンバーひとりひとりが微妙に音楽性が違うエリアで、個々の活動を自由に並行して続けていることも、バンドに良い影響をもたらしているように思うんですが。今年は個人活動については、どんな計画があるんでしょうか。
永井:僕は普段から仕事で作編曲…主にオーケストラですけど、それをやりつつ、個人としての音楽作りも続けていきたいと思っていて。「自分の音楽を作りたい」という欲求が強いんですけど、それをゆうらん船に全部持ってきちゃうと、バンドのイメージ的にもバランスを崩しかねないなと思っているので、自分がやりたいことは個人でやろうかなと。そういった活動を続けながら、バンドはバンドで新しい風を吹かせつつやっていけたらと思っています。
砂井:僕はかけ持ちしているWanna-Gonnaというバンドをしばらくやってなかったんですけど、再始動すべく話しているところです。まずはライブをやるとか、そういう感じになると思うんですけど。
──もうひとつのフレディーマーズの方は、特に動きはないですか。
砂井:あれは本当に曲を作って歌っている人のやる気次第なんですけど。最近彼はマジック:ザ・ギャザリングっていうカードゲームをやっていて忙しいので(笑)、しばらく動かないと思います。
──セキネさん、良い曲書きますよね。
砂井:僕もめちゃめちゃ好き、というか…ゆうらん船のみんなより古い付き合いなんですけど。ゆうらん船と同じように、いつ終わるとかじゃなくて、彼が良い曲を持ってきてくれたら僕も楽しめるし、また続けていけるんだと思います。
──内村さんはヒカガミというユニットでも精力的にライブをやっているし、最近はソロ名義でシングルCDをリリースしましたね。
内村:はい、永井に手伝ってもらって、新しく書いた「南の国」という曲と、「青い鳥」を弾き語りで録りました。ライブも弾き語りで何本かやって行こうかなと。最近はゆうらん船で小編成でもやり始めていて、永井とふたりで北海道へ行ったり、この間も茅ヶ崎で砂井くんと伊藤とやったりとかして。そういう感じもいいなあと思ってます。
──そんな風に臨機応変に編成を変えて活動ができるバンドは珍しいですね。
内村:メンバー各々、ピースが欠けても増えても活動ができるので。必ずしも全員揃わない場合でも、そんな風に違う形を試しつつ、いろいろな場所でライブをやっていけたらなと思っています。
(2023年4月5日、オンラインで取材)
荒野政寿(CROSSBEAT)